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Từ điển

Chi tiết từ

袁枢 (南朝)

南朝梁の呉郡太守の袁君正の子として生まれた。成長すると、容姿と態度が美しく、性格は冷静沈着で、読書を好んで釈巻を手放さなかった。顕貴の生まれで資産は多かったが、独居して交際は少なく、つねに一室に端座して、公事を除いては出遊することもなく、栄利に対しては淡白な態度を取った。南朝梁の

Từ liên quan

袁枢

1205年)は、中国南宋初期の歴史学者・政治家。字は機仲。西山先生と称せられた。 建州建安県の出身。隆興元年(1163年)に進士となり、乾道7年(1171年)には礼部試官となり、大官におもねるということがなかったため、地方に出され温州判官・厳州教授を歴任。司馬光の『資治通鑑』を愛読し、書かれている事件を理解しやすくするため記述の体裁を

伍朝枢

伍 朝枢(ご ちょうすう)は、清末民初の外交官・政治家。北京政府・国民政府で主に外交の要職に就いた。字は梯雲。本貫は広東省広州府新会県。父は政治家である伍廷芳。 1897年(光緒23年)、父の伍廷芳に従って伍朝枢も渡米し、ワシントンで初等、中等教育を受けた。1905年(光緒31年)に帰国し、広東省で

汝南袁氏

汝南袁氏繁栄の礎を築いた袁安は後漢前期の人物で、汝南郡汝陽県の出身。その祖父の袁良は孟子の易を学んだ儒者で、前漢末期の平帝のとき太子舎人となり、光武帝が後漢を興すと成武県令にまで昇ったといい、もともと地方名士の家系であった。袁安

南朝

(1)日本で南北朝時代(1336-1392)に, 奈良の吉野を中心に存立した大覚寺統の朝廷。 後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇と四代続いた。 吉野朝。 (2)中国で, 南北朝時代に江南(揚子江流域)を支配した漢民族四王朝の総称。 宋(420-479)・斉(479-502)・梁(502-557)・陳(557-589)をいう。 ⇔ 北朝

枢

〔「くるる」の転〕 「くるる(枢)」に同じ。

枢

〔「と」は戸, 「まら」は男根の意〕 開き戸の, かまちの上下の端にある, 突き出た部分。 とぼそに差し入れて戸の開閉の用とする。

枢

(1)「くるる(枢){(1)}」に同じ。 (2)「枢戸(クルルド)」に同じ。 「群玉(ムラタマ)の~にくぎ鎖し固めとし/万葉 4390」

枢

「枢(クルル)」の転。

枢

〔戸臍(トボソ)の意〕 (1)開き戸のある部分の梁(ハリ)と敷居とにあけた小さい穴。 扉の, かまちの上下の端の突き出た部分(とまら)を差し入れて, 開き戸を回転させるように作った穴。 (2)とびら。 戸。 「奥山の松の~を稀にあけてまだ見ぬ花の顔を見るかな/源氏(若紫)」

枢

(1)扉を開閉する装置。 扉の端の上下に短い棒状の突起(とまら)をつけ, それを上下の枠の穴(とぼそ)にさしこんで回転するようにしたもの。 くろろ。 くるり。 (2)戸締まりのため, 戸の桟(サン)から敷居にさしこんでとめる木片, または金物。 くるるぎ。

宋 (南朝)

の王を倭の五王という。倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されるが、このうち413年の倭王讃による遣使は東晋に対してであるが、421年から477年までの倭王讃・倭王珍・倭王済・倭王興・倭王武の遣使はいずれも宋に対するものである。 [脚注の使い方] ^ a b

梁 (南朝)

ることで昇進を困難にする制度を導入した。武帝の政策によって、建国初期に功があった将軍は粛清を免れたものの政治の場からは排除され、代わりに宗室や儒教的教養に基づく「賢才主義」によって登用された文官が軍の要職に進出することになった。しかし、建国の重臣が引退した大通年間以降に生じた北魏の混乱の深刻化と分裂

陳 (南朝)

た。 566年に文帝は崩御し、長男で皇太子だった陳伯宗が即位するが、568年に叔父の陳頊に廃され、第4代皇帝には陳頊が宣帝として即位した。宣帝は節倹と減税など民政に励む一方で軍事力を増強し、北斉の弱体化に乗じてこれを攻め江北の地を奪取した。しかし578年に北斉を滅ぼした北周に敗れ、江北を奪い返されてしまった。

斉 (南朝)

南朝斉では武帝の時代に南朝宋の孝武帝から開始された台使制度が不正や不法行為が繰り返されていた事から、蕭子良の提言もあり廃止した。また地方政治を安定させるために地方官の任期を長期化してそれを通じて民政を改善させる施策を採用した。だがその一方で戸籍の不正が繰り返され、税金や賦役を免除さ

後南朝

女院 生一房 ^ a b c d e f g 後南朝史編纂会 『後南朝史論集』 1956年 新樹社 ^ 『赤松記』によれば「赤松牢人共身の置所なく。堪忍も績かぬ事なれば。吉野殿を賴申由にて細々吉野へ參り。何とぞ赤松牢人一味致し。都を攻落し。一度は都へ御供申さんと色々申入候へば」云々。 ^

袁枚

(1716-1797) 中国, 清代の詩人。 字(アザナ)は子才, 号は簡斎。 世に随園先生と称される。 詩法に拘泥せず性霊説を唱え, 清新奇抜な詩をつくり, 古文・駢文(ベンブン)にもすぐれた。 主著「小倉山房集」「随園詩話」「随園食単」

袁翻

袁 翻(えん ほん、476年 - 528年)は、北魏の官僚・文人・政治家。字は景翔。本貫は陳郡陽夏県。 袁翻の父の袁宣は筆才があり、南朝宋の青州刺史の沈文秀の下で主簿をつとめた。469年(南朝宋の泰始5年、北魏の皇興3年)、北魏の慕容白曜が青州州治の東陽城を陥落させると、袁宣は沈文秀に従って北魏に降

袁安

袁 安(えん あん、? - 92年)は、後漢初期の中国の官僚。字は召公。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。袁安自身を含め4世代で5人の三公を出した後漢時代の名門汝南袁氏の始祖となった。袁賞・袁京・袁敞の父。 袁安の祖父の袁良は孟子の易を学んだ儒者で、前漢末期の平帝のとき太子舎人とな

袁盎

の周勃)をどう思われますか」と聞いた。文帝は「社稷の臣である」と答えたが、「社稷の臣とは国家と生きるも死ぬも一体の者です。呂后の時代に太尉となり兵権を持ちながらも正すことができないでいた絳侯は、功臣であっても社稷の臣ではありません。臣が陛下に驕った態度を見せ、陛下が謙譲するのはよろしくないと、臣